マイストリー
1 間山の痩御前(やせごぜ)の奇 祭・・・ 高福寺跡の薬師堂
中尾をとおって上るのもよいが、それより勝央町岡のノースビレッジの三叉路を北に上がる方がよい。勝央町の貯水タンクの手前の道を右折すると、すぐ左側に、原っぱや御堂などの建物が見える。草原に駐車し、このあたりを解説している案内板により歩いてみよう。ずいぶんたくさんの遺跡に出会える。この高福時は用明天皇の国家鎮護の祈願所として開かれ、天平年間 行基により金堂、堂宇、僧坊が開かれたと伝わる。南は大門 西は池ヶ原、北は豊久田、東は川北の峠 この一里四方が寺域であったと。一時衰えるが平安時代半ば ここにいて後姫路の書写山円教寺に行かれた性空上人(ここより 姫路に移る)が再興。戦国時代末期 天正5年1577)毛利の上月城攻めの余波か、落雷化かにより 全山灰燼に帰す。林野の安養寺、尾谷の顕蜜寺、植月の観音寺、勝間田の真福寺等はこのとき 四方に分散し 現在地に移った寺である。寛永年間に薬師堂や鐘撞堂・梵鐘は念西が寄贈、再建。寺の跡の周りには大師堂、弁天堂、山王社などの祠、安養寺の会陽の基となった池や岩に至るまで言い伝えが残っている。
薬師堂には御大師様の木像が大小5体あり。旧の4月8日には美作・勝央にまたがる10軒ばかりの上相の集落人達が 先祖伝来伝わっている痩御前祭をおこなう。木像を背負って 祈願ごとをしながら3回お堂の周りを回る。すると、願いがかなうという。昔は男女とも裸体で背負っていた。笑うと福が逃げるので苦虫を噛んでいるような顔をして回ったので、周りのみんなが笑う。また、笑わそうと囃し立てたとつたわる。この祭りは お釈迦様の弟子の裸こせという人にまつわる話から始まったと 岡山県史の資料編にある。
平成23年 作東のご婦人が足が悪く 歩行が困難なので「足が直り よく歩けます様」祈願したところ お蔭があって、朝夕不自由なく 散歩ができだしたという奇跡がおこつている。旧の4月8日
仏生会には痩御前祭に願掛けに来てください。願いが叶うかも。
この日は地元の人たちが甘茶の接待をしてくださいます。ありがたいことです。
、夏季にはマムシに注意。長靴着用のこと。
2 上山 慶長鉱山跡ー日本霊異記に載っている所?ー
あまり知られていない歴史が
民話・史跡の旅
千人間部の言い伝えの地
英田中川の交差点を直進。下谷集落を過ぎ約800メートルところを右に上がる。九十九折を上り、二股になったところを左に進む。家が2軒あり。そこに 駐車させていただき田んぼの畔をとおり 東の谷に出る。そこからは1本道。奥に約600メートル。右側に鉱山の穴が至る所にあり。あちこちに 金糞石が散乱。あるいは山となってある。その山となってあるところを20メートルぐらい行くと坑道の口があり、横を上ると坑道が落盤したようなところに出くわす。これが千人間部の言い伝えの間部であろうか。
上山には昔 1000人の人が落盤により生き埋めになった。仏様を信じた人がお願いしたら坑道の上に穴が開き、1000人の人が助かったという話が伝わっている。この話は奈良時代に書かれた、仏様のありがたい話が書いてある日本霊異記下108話めに「美作採鉄男の話」があり、昔から伝わるうち 1人が1000人に拡大したのであろう。話はこうだ「天平勝宝元年(749)美作国英多郡の鉄を採る山で 国司が役夫10人使っていた。突然入口が崩れ9人は逃げたが 1人は閉じ込められた。妻子は悲しみ、観音の絵をかき、経を写し、冥福を祈って7日過ぎた。役夫は「まだ法華大乗を映し終えていません。助かったら必ず映し終えます」と誓った。すると光がさし、お坊さんがやってきて食べ物を差し出した。・・穴があき、この役夫は助かったと。このころ 奈良の大仏が鋳造された。関係は?750年前後 奈良の大仏が 造られ 全国から 銅鉱が沢山奈良に送られた。そのうちの一部分が 美作のくにから送られたのでは。
英田郡にはもう2か所、この話が比定できるところがある。しかし、そこではこの種の民話、伝説は聞かない。すると日本霊異記に載っているところで 一番近いのは 旧英田町上山の段にある、(慶長年間に一番産出量が多かったのでその名がついた)この慶長鉱山かもしれないと英田町史は記述している。しかし、平城京からの出土の木簡などから
粟井中の春日神社 南西の銀山であるとほぼ確定しているようである。
上山神社にはご神体が2体祀ってある。そのうち1つが 西光寺が屋敷地内にある藤原家から落盤事故で、命を助けてもらったお礼として献上された、この鉱山から出たと伝わる石であると。
この古代のロマンを感じる道程は他に 上山の妙徳寺の前の道を東進すること400メートル、四差路あり。まっすぐ小路を更に東進 水道の貯水槽に向かって進む。池があり。堤より西進50メートルぐらいで、この鉱山跡に出くわす。今も寺、田や畑、屋敷の跡があり。明治時代まで稼働していた面影が感じられる。
探索には面白い。しかし、夏季にはマムシに注意。長靴着用のこと。
3 真木山の歴史と保存活動活動
孝謙天皇の代天皇の勅願として鑑真和尚開山
古代僧房軒を連ね読経鉦鼓 の声一山に密る
中世兵火をこうむり・あるいは公事訴訟のためおとろえ 古代100分の一にもしかじと思われるばかりに衰退
享和の火災にて古書古物消失 その上一山の論争で費用莫大 人なく幼稚・弧僧・遁世の老夫婦などとなり衰退の一途をたどる。
寛永年中には 般若院・明王院・西方院・平等院の4ケ寺他に北房・園坊・中蔵坊・奥坊・中坊・中尾坊・尾崎坊・竹中坊・大門坊・久保坊・谷坊・鳶坊・新坊・田淵坊・東坊・南坊あり。
森公時代には93石6斗の寺領ありしが 沼田藩支配になると激減
明治の初め2ケ寺になり 其れも併合して1ケ寺に
大正末期 火災にあい 本堂や三重塔などのみ残り 後は消失
昭和初め神田に降りる。
昭和26.7年ごろ三重塔も下山。後は廃墟のみとな。(主に 東作誌より抜粋)
この大伽藍跡を後世に残す会(会長橋本清)が現在 保存活動に取り組み中です。
第6回めの作業が8月8日 早朝行われ 虚空蔵跡がある一番高い山の区域半分を整備しました。下はその時の様子です。秋には素晴らしい紅葉の風景が見られるでしょう
参道入り口
虚空蔵跡 2間4間の虚空蔵様があった
参道入り口 この日の参加者
虚空蔵への道 整備中
途中にある 日限地蔵跡
荒神跡 1間四方の小詞があった
この大伽藍跡を後世に残す会(会長橋本清)が現在 保存活動に取り組み中です。
第7回めの作業が11月19日 早朝から午後4時ごろまで行われ ました。班を2つに分け
一つは 近道から 鑑真や釈迦の遺骨が埋めてあると伝わる、開山跡までの道を整備する・もう一つの班は 虚空蔵跡の西側の道に倒れている竹木を伐採、除去、標柱を立てる、茶畑あとにある木々の伐採の仕事でした。それに中国遊歩道の側溝に土砂がたまり 道がぬかるんでいるので 溝掃除も仕事が済んだ人がしました。心配した雨も降らず 見事に高揚した美しい風景の中のしんどいながら 楽しい1日でした。下は 全部の人の仕事ぶりは離れていて取れませんでしたが・・その様子です。
西方院跡のの前方より
参加者
六地蔵の前での昼食後の一時
側溝のと泥上げ作業
茶畑跡の整備
開山跡へ